弘前東照宮

お父さんとお母さんが結婚式をあげた所!

「あっ!この紋(もん)はテレビでよく見る水戸黄門と同じだわ。」
ユミちゃんはお父さんの部屋で大発見した。本だなのとなりに飾ってある、お盆のようなものに徳川家の紋がついていたのである。

 お父さんの話から、東照宮で「お母さんと結婚式をあげた時」に神主さんからいただいたものだということがわかった。それだけでなく、徳川家康はお父さんと同じ寅年だったので、四二才の時に厄年(やくどし)のお祓(はらい)もしていただいたそうだ。

 東照宮という名前を聞いて、ユミちゃんは学校で勉強したことを思い出した。

 六年生のユミちゃんは、七月に入ってから社会科で江戸時代を勉強している。その時に先生が
「水戸黄門のおじいさんにあたる徳川家康が、江戸幕府を開いた」
というお話をして下さった。また,徳川家康は長く続いた戦いの時代を終わらせて、平和な時代をつくりあげたので、亡くなってから「神様」になったというお話もして下さった。

笹森町の東照宮

 弘前東照宮は時敏小学校の学区になっている。友達の千葉さんの家の近くだ。ジュンちゃんとユミちゃんはお父さんの車に乗せてもらって東照宮に出かけたてみた。正面に拝殿、奥に本殿があり、静かなたたずまいの中に歴史の重みが感じられる。本殿は一六二八年に造られた「しら木造り」の桃山建築様式だそうだ。ユミちゃんが予想していたものより少し小さかったが、木立に囲まれて美しく見えた。

弘前東照宮の由来

 お父さんに解説してもらいながら、説明の看板を一生懸命読んでみた。

 この東照宮は、津軽二代藩主信(のぶひら)が将軍徳川秀忠の許可を得て元和三年に勧請(かんじょう)したもので,はじめは弘前城の中にあった。やがて一六四二年に現在の土淵川の近くに移した。堀もあったというから、弘前城を守るという目的もあったらしい。

 二代信牧という方は津軽藩の力を強めるために、家康の養女満天姫(まてひめ)を奥さんにしたり、家康の有力な相談役だった天海僧正の助けを借りたりしている。初代の為信公とともに津軽藩の基礎をしっかり築いた方である。

 次の日、学校で先生に探険したことをお話したら、さらにいろいろなことがわかった。

東照宮は青森県にただ一つ

 「東照宮は青森県にたくさんある」と考えている人もいるが、実はただ一つしかない。弘前東照宮だけである。それも、全国にある東照宮の中で、大名が建立したものとしては最も早い時期のものであるから驚きだ。満天姫を迎えて徳川家と「親戚」になったことも理由の一つらしい。

東照宮の名称

 東照には、東から照らす朝日のように勢い盛んな神という意味が込められており、天照大神の神名も考えに入れていたようである。神社の名称の中で、「神宮」や「宮」がつくのは皇室の祖先の神を祀る所だけである。天皇の臣下にあたる人物を神とする神社で「宮」がつくのは菅原道真の天満宮と徳川家康の東照宮だけであり、特別な例である。

 東照宮は南部藩にない。全国では555社もあるのに、八戸藩や南部藩にないのはなぜか。言い伝えとして、天海僧正の話がある。「津軽には家康の養女満天姫がいる。南部は津軽が滅びることを願っていてよくない。南部が願い出でても東照宮の勧請を認めるべきではない。」というのである。津軽藩と南部藩の仲が悪かったことからきているようだか、本当かどうかはわからない。平成時代の現在、同じ青森県の仲間として協力している私たちからみれば、まるでウソのような話・・・・・・・・・・。


このページは2000年頃に天内純一氏が作成したものです。
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