お姉さんのユミちゃんの勉強は明治時代に入っている。武士の世の中が終わり四民平等になったこと、文明開化があったことでなどを調べた。 郷土に関係あることとしては、明治天皇が全国を巡幸して、青森県や弘前市にもやってきたことがわかった。(ユミちゃんは五月の連休の時に大学病院や裁判所の敷地に建てられている明治天皇の石碑を見にいったことがある。)
また、このころの建物として、「青森銀行記念館」や追手門広場の「旧市立図書館」「外人宣教師館」などたくさんあることがわかった。 弘前市は大きな火事もなく、その後の太平洋戦争の時空襲にもあわなかったからだそうだ。
今日はタカちゃんの七五三祭りの日。家族五人で、五重の塔の隣にある八坂神社に出かけた。
秋も深まって、イチョウの黄色い葉が目にまぶしい。実もたくさん落ちている。みんなで、五重の塔や山門、鐘をバックに写真を撮っている時、ユミちゃんはものすごく大きな石碑を見つけた。
幅が二・五メートルくらい、高さはお父さんの身長の五倍くらいもあろうかという、これまでに見たこともない大きな石碑。
秋の青空にくっきりとそびえ立っていて、すぐ近くにある五重の塔にも負けないほどである。近づいてみると「堀江佐吉翁記念碑」と書いてあった。記念碑の裏には明治四一年と書いてあり、よくわからない人の名前などがたくさん並んでいた。堀江佐吉といえば、明治時代に洋風建築をたくさん手がけた人である。
ユミちゃんは青森銀行記念館を見学した時のことを思い出した。国の文化財に指定された建物で、 西洋風のシャレたつくりである。今から百年以上も前に建てられたとはとても思えない。細かい所まで 研究されていた。
この青森銀行記念館を造ったのが堀江佐吉である。堀江佐吉はこの他にも金木町の斜陽館をはじめ、津軽地方一帯に数えきれないほどの西洋風建造物を建てている。
図書館で調べてみると、この巨大な石碑は佐吉の友人や知人、八百二十人もの人々がお金を出し合って建てたものだということがわかった。
堀江組一統七百余人といわれ堀江佐吉は、県下一の棟梁だった。この津軽の偉人が亡くなった時葬儀に出席した人は千人を越えたという。堀江佐吉の功績ををたたえる石碑を建てる話が出てきたのも当然である。