ねぷたが運行される町 北海道・斜里町(しゃり)


工藤直樹先生(大和沢小学校)からお借りした原稿をもとに作成しました。

 7月の中ごろに、北海道の斜里町(しゃりちょう)というところでは、ねぷた祭りがおこなわれています。

 この斜里町で運行されているねぷたは、なんと弘前ねぷたなのです。

 なぜ遠い北海道の、しかも北の地いきで、弘前ねぷたが運行されるのでしょう。それには次のような悲しい事件が関係しています。

北の黒船事件と津軽藩

 18世紀中頃から蝦夷(えぞ:現北海道)近海にしきりにロシア船があらわれました。

 蝦夷地に近い津軽藩は、幕府からたびたび出兵の命が出され、海岸線を守るための台場(砲台)を設営するなど、北方警備における重要な役割を受け持っていました。

 1804年、ロシア使節レザノフが長崎に来航し、通商を求めてきました。幕府は彼らを半年も長崎に置いたうえ、通商を断ったのです。この報復のため1806年ロシア軍艦は樺太(からふと)の松前藩出張所を、翌1807年には択捉(えとろふ)島の漁港を襲い、番屋や倉庫を焼きはらったのです。まさに鎖国をゆるがす大事件でした。

 しかし、これに対しても、幕府はあくまでもメンツにこだわり鎖国を押し通し、ロシア船打ち払い令を出し、津軽藩をはじめとする東北諸藩に三千人の蝦夷出兵を命じ北方の警備をさらに強化したのです。

 この時、宗谷詰めから知床半島のつけ根の斜里へ配置替えがあり、百名の津軽藩士が斜里警備へと向かいました。急な命令だったために準備も整わないままの出発でした。到着した頃はもう秋で、休む間もなく自分達の住む陣屋を建設する重労働を終え、厳しい冬を迎えました。装備も食料も不十分のまま、蝦夷地の寒さに対する知識もない無謀な冬越しでした。それからは、仲間が次々とえたいの知れない病気にかかり、毎日誰かが息を引き取っていく、まさに死との闘いの日々を送ることになります。

 それは浮腫(フシュ)病といわれ、むくみが足先から全身におよび、しまいには腹がはれてひどく苦しみ、死にいたる恐ろしい病気で、現在では栄養のかたよった食事しかできなかったことが原因と考えられています。

 帰還命令が出される1808年(文化5年)8月まで72人が病死、帰国の途に着いたのがわずか17人という悲さんな状況でした。戦わずして斜里の土となった藩士たちはどんなにか無念だったでしょう。

 この津軽藩士殉難(じゅんなん)事件は、昭和29年に幸い発見された「松前詰合日記」の解読によって明らかにされました。これは、斜里詰めの生存者のひとり、当時22才の津軽藩士斎藤勝利が、見つかれば切腹を覚悟の上で書きのこした詳細な勤番日記です。斎藤は、あまりにも悲さんな内容のため他人にはとうてい見せられないものと自覚していたようで、表紙と裏頁に「この一冊は他見無用・永く子孫へと伝」と書いていました。

 驚いたことに、発見当時の弘前ではこの事件に関するまとまった記録は確認されず、真相は全く不明だったそうです。斜里町では斎藤の日記が裏付けとなり、由来が不明だった文化6年の「死亡人控(過去帳)」と文化9年建立の二基の供養碑が、津軽藩士殉難に関したものであることが分かり、関係者は多いに驚き、そして喜んだそうです。

 斜里町では史実の解明をすすめるとともに、昭和48年には津軽藩士殉難慰霊の碑を建立し、毎年7月16日に慰霊祭を行ってきました。その仏縁あって、弘前市と友好都市の盟約を交わしたのが昭和五十八年。斜里のねぷた祭りには、このような悲しい歴史があり、それをしっかりと受けとめ、決して忘れてはいけないとする温かい心と勇気を持った人たちの願いが込められていたのです。

※参考
「図説青森県の歴史 河出書房新社」
「近世の斜里 斜里町知床博物館図録」
「津軽藩士の殉難と斜里 津軽藩士殉難慰霊碑を守る会」


1739年(元文4年)ロシア船が陸奥、安房沖にあらわれる。
1778年(安永7年)ロシア船がクナシリ島に来航する。
1785年(天明5年)このころから蘭学者の意見が強くなる。
1792年(寛政4年)ロシアの使節ラックスマンが根室に来航し、通商を求める。
当時の北海道は、渡島半島が松前藩の領土で、太平洋岸は東エゾ地、日本海沿岸は西エゾ地といわれていた。
松前藩はそこに住むアイヌ人からサケや海産物を年貢としておさめさせてた。
1793年(寛政5年)幕府から津軽藩にエゾ地への出兵命令が出、310余名が出兵する。
(盛岡藩は420名)
1795年(寛政7年)ウルップ島にロシア人が住み着く。
1796年(寛政8年)イギリス船が松前・エゾ地沖へ渡来する。
津軽も領内の沿岸に異国船が出現し、大騒ぎとなる。沿岸防備に力を入れ、砲台場をたくさん築く。藩の財政は苦しくなり、農民や町民も税や労役の負担が重のしくかかる。
1797年(寛政9年)イギリス船が再び来航。ロシア人がエトロフ島に上陸。
1798年(寛政10年)津軽藩は幕府の命令を受け、箱館警固にあたる。
将兵およそ三百名を派遣する。(一年交代で二年間)
近藤重蔵らがエトロフ島に「大日本恵登呂府」の標柱をたてる。
1799年(寛政11年)幕府が東エゾ地を直轄経営する。
津軽藩が浦河以西の東エゾ地の警衛を命じられる。
1800年(寛政12年)津軽藩がサワラ、釧路周辺の警衛を命じられる。
伊能忠敬が測量開始。
1802年(享和2年)箱館・サワラ・アブタ・モロラン・シラオイに津軽兵が置かれる。
(一カ所に50人ずつ配置)
1803年(享和3年)津軽兵アブタ、モロラン、シラオイから引きあげ命令が出される。
隣島(ロシアの開拓民が住み着いたウルップ島)監視のため30人がエトロフ島へ派遣される。
1804年(文化元年)ロシアの使節ニコライ・レザノフ長崎来航。江戸幕府に通商を求める。
→半年後、幕府は拒否する。 津軽・南部藩が、幕府から東エゾ地の永久警備を命じられ、年中、現地の守りを続けないといけなくなる。
エトロフ島の津軽藩兵は30名が冬越しをする。
冬から春にかけて、エゾ地を警護している津軽兵に、全身がはれ上がる、えたいの知れない病気(浮腫ーフシュー病)が発生する。11人が死亡、9人が重傷となる。
1805年(文化2年)津軽藩四万六千石から七万石に加増。
北方警備の功で藩祖為信以来二百年ぶりの昇格。
1806年(文化3年)9月 ロシア船がカラフトの松前藩出張所を襲撃する。
1807年(文化4年)幕府の命令により、津軽藩領内に10カ所の台場(砲台)を築造する。
3月 幕府がエゾ地を直轄地にし、箱館奉行(ブギョウ)に管理させる。
4月 ロシア船がエトロフ番屋を襲撃し、日本兵は無惨に敗走する。
(津軽藩・南部藩の兵二百人がふくまれる)
このあたりから、日本国内に幕府の外交政策に対する不満の声が上がる。
5月 幕府は東北諸藩に、東エゾ地警備のため三千名の出兵を命じる。
・津軽藩は将兵750名を出兵し、箱館警備に向かう。
・その後、箱館から宗谷警備へとかえられる。
 6月 利尻島付近でロシア船が日本船を焼き打ちにする。
9月 宗谷から斜里警備へ102名が配置がえされる。
・冬の厳しい寒さの中、斜里警備の津軽藩兵に正体不明の病が大発生し、多数の死者が出る。被害の状況は、津軽藩の足軽斎藤勝利による『松前詰合(マツマエツミアイ)日記』に詳しく書かれる。
12月 幕府がロシア船打ち払い令を出す
1808年(文化5年)8月 斜里の津軽藩兵に帰還命令が出され、生存者17名弘前へ帰る。
・幕府にエゾ地警備の功績が認められ、津軽藩は七万石から十万石に昇格する。格が上がっただけで、領地が広くなったり、収入が増えたわけではなかった。
1809年(文化6年)津軽藩は幕府の命により、450余名をエゾ地へ出兵する。
(盛岡藩は650余名)
1811年(文化8年)ロシア軍艦がクナシリ島へ上陸。
1814年(文化11年)三厩村に藩兵の駐屯が命じられ、津軽海峡や沿岸を航行する異国船の警戒にあたらせる。
1825年(文政8年)幕府が清とオランダ以外の外国船はすべて撃退することを命じた。
→異国船打ち払い令
1837年(天保8年)大塩平八郎の乱
1844年(弘化1年)オランダ国王が開国をすすめるが、幕府は拒否する。
1853年(嘉永6年)アメリカの使節ペリーが浦賀に来航、開国を求める。(黒船来航)
ロシアの使節プゥチャーチンが長崎に来航、開国を求める。
1854年(嘉永7年)日米和親条約を結ぶ。(開国)
日露和親条約を結ぶ。
・下田・箱館・長崎の三カ所の港を開くこと。
・ロシアとの国境が定められる。エトロフ島より南は日本の領土、ウルップ島より北はロシアの領土とする。
カラフトは両国雑居の地として境界を定めなかった。
1858年(安政5年)5か国(アメリカ、イギリス、ロシア、オランダ、フランス)と通商条約を結ぶ
1875年(明治8年)カラフト全島をゆずるかわりに千島全島を日本の領土とする条約がロシアとの間で結ばれる。
1951年(昭和26年)サンフランシスコ講和条約で日本は千島列島と南樺太の権利請求権を放棄する。
・日本は北方の四島は含まれない姿勢でいたが、旧ソ連は4島を含めた考えで、両者の主張は対立している。
→北方領土問題

このページは2000年頃に天内純一氏が作成したものです。
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