出会い

小山智史

 初めて滝子山を目指したのは1972年のことだ。

 笹子駅から吉久保を通り、大鹿沢沿いに進んだ。林道終点から右手に沢を渡るその手前の所にツェルトを張り、一泊した。ガイドブックによれば近くに道証地蔵がある筈だが、見つからなかった。翌日、浜立山から滝子山に登る道を探したが、これまた見つからなかった。地図を見てもどこを歩いているのかよくわからなかった。道なりに進むと、造林小屋を通り、頂上に辿り着いた。大谷ヶ丸だった。結局、目指す滝子山には登らずじまいで初鹿野に下ったのだが、小気味良く「してやられた」というそんな気分だった。それが滝子山との出会いだ。

 以来、滝子山あるいはその周辺の山には足繁く通った。30何回かまでは数えたが、結局何回通ったかは定かでない。当時は、木の運び出しのために馬も活躍していた。造林小屋も賑わっていた。滝子山山頂から鎮西ヶ池にかけて伐採され、山が丸裸になったのはその頃だ。

 寂惝尾根をはさんで滝子沢がある。こちらも何度か遡った。台風の被害にあうまでは、美しい沢筋だった。沢の水が美味しいのも気に入っていた。山の水はどれも美味しいと思っている人もいるようだが、それは間違いだ。滝子山周辺の水はとにかく美味しい。中でも鎮西ヶ池にしたたり落ちる湧水の味は格別だ。

 登山ブームで、休日ともなればどの山も大賑わいだった時期がある。そんな時も、この辺りで登山者と出会うことはほとんどなかった。希に、山椒や山躑躅を採りに来た人に会った。その後しばらくすると、雑誌にでも紹介されたのだろうか、休日には、ごく普通の登山者の姿をよく見かけた。もっと最近になると、無事に帰って来るだろうかと心配になるような高齢者の単独行が目に着いた。さて、今はどんな人達がどんな思いであの辺りを歩いているのだろうか。


 それはどこを歩いた時だったか良く覚えていない。滝子山に登った時かもしれないし、お坊山を歩いた時だったかもしれないが、大鹿峠から下ってきたような気がする。もしかしたら、朝、登り始める時だったかもしれない。記憶はあいまいだ。とにかく、以前から気になっていた「寂尚苑」の看板の正体を確かめようと、例の小道を入って行った。その名前からは、「まだ若い尼僧が世をはかなんで一人暮らしている」と想像した。この辺りは雪も結構積もる。「あばら家で尼僧はどう冬を過ごすのだろう」とも思った。来てみれば、立派な家が建ち、髭の濃いおじさんがひとり屋根に上って煙突を直しているではないか。アテがはずれた。名簿の中の私の覧には「通行人」とある。

 宮内さんとはそんな出会いだった。お父さんの宮内力氏のことは以前から存じていたのだが、それがわかったのはしばらく後のことだ。このことについては、機会があれば改めて書いてみたい。


 早いもので、トモローランド共和国・弘前大使館に赴任して6年になる。

 ほど近い白神山地は、世界遺産に登録され一躍有名になった。マタギ道と呼ばれる踏み跡が山の奥深くまで続いている。職業人としてのマタギはいなくなったが、山を生活の一部として暮らす者は今でも多い。山ではそんな人と出会うこともしばしばだ。

 子供の頃、自宅近くの雑木林を走り回って遊んだ思い出がある。そんなたわいもない「山遊び」を今も続けている。

笹子山小屋二十周年記念誌(1995年)