酒東47会(宝物殿)


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本名で行こうよ。 発言者:上田豊明 2002年03月08日(金) 20時46分
 斎藤の謙ちゃんは今どうしているんでしょうか。もう退院したのか、あるいは年のせいで回復力が遅く、いまだに若い看護婦と「あーでもない、こーでもない」とあることないこと喋り撒くっているのでしょうか。いずれにしても、情報の受発信の基となるパソコンはすぐ傍に置いていると思うのですが。
 先日貴兄からメールをいただいた中に、我が掲示板は出会い系云々と違い、身分を明らかにしているから、節度ある内容の書き込みが多く、誰とは判らない相手を罵倒するような内容は一切ないって。私もそう思っています。しかし、私を含て、たまーに掲示板を開いた人にとってはどう写るんでしょうか。ペンネーム、ニックネームで判る人同士が情報や近況を披露し、楽しそうで私もと思うのですが、いざボードに向かうと何か場違いかなと思えるのです。できれば掲載の都度本名でいきませんか、皆さん。高校時代と姓がが変わった方は、旧姓も表示して。・・・。

 
今、私、リストラに合い、無常なる人生を明らめておりまして「中年の、何でも悩み事相談」なるものを受け付けております。是非この機会にお便りを下さい。只今キャンペーン中につき無料でご診断申し上げます。尚、ウィルス対策には万全を期しておりますのでご安心下さい。では、バイチャ。

Rさん? 発言者:つよP 2002年03月08日(金) 20時00分
Rさんは、るりさんバレバレです。
もう恋文じゃないんだから・・・。でもちょっとドキドキ?
ダラケンもきっと喜ぶだろうな!!。
そろそろ退院かな?きっと暇な入院中、今後の展開や書き込みの構想を練っただろう。でもシャイだから、そんなこと微塵にも見せないだろうが・・・。

悔しいから! 発言者:金井晴生 2002年03月08日(金) 04時58分
俺は外資系に勤めて17年になるが、最近「TOEIC Test860点突破大特訓」という対策所書で試したら、何度やっても700点いかない。
でも、仕事は一応やって行ける。
一日5時間もいいけど、それだけじゃあね?
回りは日本はダメと、洗脳された連中ばかりだから、円が突然買われだすと、この事を説得するのは1000点でも不可能だね。

太田英男恐るべし 発言者:つよP 2002年03月07日(木) 23時01分
ダラケン不在のこの際、全部反応するつよPです。またか!?と言わんでーーー。

太田英男、簿記のことは知らんが、英検準1級合格はすごいぜ。この年で・・・。
知らない方にオレが説明しよう。簡単に言えば、筆記テストは準2級を高校2年でとって、2級を優秀な高校3年生、もしくは大学生が受け、準1級は英文科など英語を専門にしている人の関門と言われている。しかも準1級の面接(2次試験)は全く日常英会話に困らないレベルを要求される。何回かかっても、おれらの年ではすごいことと思う。太田、すごいぜ!!知る人ぞ知る、高校時代ちょっと英語が得意だったオレが、練習問題を見て全く歯がたたないし、受ける気にもならんもの。

でも、太田、君がくやしい話も少し。47会の綱淵圭悦くんはその英検やTOEICの試験官もやっている。英語のプロになっている。
うちの妻も英語にはまってしまい、山形県でここ数年誰も合格していない1級に挑んでいる。前回は不合格Aだった。TOEICは800超をキープしている。
相当「お宅」にならんと、不可能な世界だと思う。一日最低5時間は勉強しないと、維持できないんだと。うちの女房、初めは10年前に、息子と一緒に公文に行って始めた英語なんだが・・・。

ダラケンさんへ 発言者:R 2002年03月07日(木) 22時37分
返歌とはいきませんが返句(?)を一つ
「友の無事 祈りて眺む 春の月」
如何なものでしょう?
無事の御帰還を願っております。

自信喪失 発言者:太田英男 2002年03月06日(水) 21時49分
今日はショックでした。絶対受かると思っていた簿記3級の試験に落ちていました。
回りの人に聞いても3級くらい簡単っていう感じで、安心していたのですが・・・・
去年、英検準1級受かったんですけど、二次試験3回目にして、やっと通りました。
試験官もかわいそうだ、と思ったんじゃないでしょうか。何を隠そう、私は資格マニアだったんですね。英検1級取るにはTOEIC、かるく900点いってないといけないみたいです。因みに私はベストスコアが625点で、かなりの隔たりがあります。50歳までには何とか、ここまでやろうとか、考えていたんですけど、これからはゴールを60歳まで下げないといけないみたいです。簿記と会計学も続けます。アチョー!

花札考 発言者:つよP 2002年03月06日(水) 20時30分
修学旅行の花京太の胴元事件に反応!オレ、花札大好きでしてた。最近やることは一切ないが・・・。
まつ・うめ・さくら・くろふじ・かんこ・ぼたん・あかふじ・つき・きく・もみじ・あめに・きり。そう1月〜12月です。かんこはあやめです。
これは「スイへーりーべーボクノフネ」よりおれ的には古い暗記である。

花札の「コイコイ」には次のような役がある。五光・四光・三光・赤丹・青丹・猪鹿蝶・月見に一杯・花見に一杯・五ネタ・五丹・七丹・カス。

また、オイチョカブでは、独特の目の言い方があり、1〜10(0)までそれぞれ、ピン・仁蔵・三太郎・四谷・後家・六方・質屋・オイチョ・カブ・ブタと呼ばれる。
これをトランプでやるのは、解りやすいが邪道である。サイコロのチンチロリンでも使われる表現である。

何の役にも、たたない話でごめん。でも花京太はつぶやくかも・・。松・梅・桜と。

ダラケンに「いない間に何書き込んでるんじゃ!!」と怒られそうです。

救命救急士の気管内挿管 発言者:アルチュウスイマ〜 2002年03月05日(火) 22時50分
救命救急士の気管内挿管の話、先ほどのニュースステーションで続報をしておりました。
民主党が「10年もかかって未だになにも決められない基本的な意識の低さ...」などと、厚生労働省や日本医師会を糾弾していましたね。
この件に関しては、消防庁・総務省・民主党、がんばれ!

葉っぱの2-2 発言者:(^θ_θ^) 2002年03月05日(火) 20時27分
恥かしながら、ダラケンさんの文を読んで咄嗟に浮かんだのが、これ。 何か深い意味があるに違いないけど、分らないーーー私って、やっぱりダメなやつ!
そして、今夜の不幸が始まりました。
@ 蛍光灯を取り替えていて、傘の直撃をうける。
A イカリングを揚げていて、はねた油で手首の火傷。
B その時力んだせいか、肩が重い。
C みぞおちの辺りが痛み出し、30分休憩。
それが、何? 大橋巨泉? そっ、そうでしたか・・・
本来なら、お大事に、とか言うんでしょうが、入院中の話にも案外期待できそうなので、楽しみにしてま〜す。

花京太、アンタ‘大阪の夜’だから覚えてないんじゃないの?
私の宿は京都だったけど。

思い出せないー。 発言者:花京太 2002年03月05日(火) 08時10分
^θ_θ^、花札賭博!酒買いに行った?それってホントの話し〜?
大阪の夜の出来事が思い出せない。1−5で同じ部屋にいたはずなのに。
たぶん、私には関係ないお話・・・・あ、思い出した。スッピン、クッピン親の総取♪
ダラケンさん、サイボーグから真人間に復帰との事、おめでとう。
きっと、身も心も軽くなってお帰りのことと期待しております。
お頭と口は今がちょうど良い塩梅かと、これ以上軽くなりませぬようご注意!ゴメンナンショ。

はっぱのにのに 発言者:つよP 2002年03月04日(月) 22時21分
素晴らしい一首だ。大橋巨泉の「何とかの? こもれび過ぎればスギチョビレ スギ書きすらの はっぱふみふみ」だったっけ・・・。

みんな、ダラケン入院中に”退院おめでとう!”の書き込みを貯めてみようぜ。
きっと3日位だろう。彼は律儀な男なのできっと応援してくれた方に全ーー部返事するだろう。仕事もたまってしまうだろうが、あいつは皆の声を楽しみにしてるはず。

では桜井から一言。
謙三、君の足は細くて長すぎる。まるでオマエの好きなズワイ蟹のよう。だから骨折するんじゃ。岩浪みたいな太い花咲蟹になれ!。でもズワイ蟹はいい味だしてるんだよな。花咲蟹はヤドカリの種類だそうだ。特に深い意味はない。

我、出陣に憂いなし。 発言者:ダラケン 2002年03月04日(月) 17時24分
 「金具取り外し」の旅に出ます。

ついては、外部との連絡を一切断ち、しっかりと自分をみつめ、「真人間」になって帰ってまいりたいと存じます。 何かあってもいけないので、一首、詠んでいきます。

「過ぎし日(び)の 思ひぞ躍る掲示板 口から出まかせ はっぱのにのに」(「はっぱのにのに」は「口から出まかせ」にかかる)

微かな思い出 発言者:(^θ_θ^) 2002年03月02日(土) 19時38分
英会話なんか出来もしないのに、私のグループも、万博で外国人に遊んでもらおうとしていました。
で、ケベック館へ。 単にそこが空いていたんだと思います。
中で、カッコイイお兄さんをつかまえてみたら、「ケベック州はフランス語」と言われ、かくっ。 「だから英語を試せなかった」と言い訳ができて、それはそれで良かったわけですが。

修学旅行なんて名の下に、みんな結構いろんな事してたのね。
私なんか生真面目に関西の数日間を過ごしていたのに・・・。
ちょっとだけ、アルコールを調達しに、夜の京極方面にお出かけしましたけど。
なんでそういう流れになったのか、さっぱり思い出せないし、部屋で何人かで飲んだような気もするけど、味も覚えてないません。
修学旅行の宿って、もしかしたら、酒臭かった? それ以上に出来あがってた先生達が気がつかなかっただけ?
ただねえ、その晩、太○○子さんが、花札賭博の胴元のお仕事のため、朝帰りしていましたねえ、確か。

来ると思った 発言者:つよP 2002年03月01日(金) 23時01分
なんてことはない。ダラケンが何で修学旅行の話に参加しないか・・と思ってフッただけです。案の定、来たね。安心した。

修学旅行、オレも北海道に行きたかった。あの時確かアンケートを取って、ほとんど五分五分だったはず。最終決定は先生たちだったかもしれん。確かに先生たちの希望があったかもね。今、わかった!!。先輩に聞くと北海道では愛が芽生えるとの噂もあった。しかし、大阪では愛は生まれなかった。ちくしょー。

オレの万博は?そうねーW君たちとスナックに飲みに行ったとかもあったが、それより外人を見つけると、とにかく英会話をしてみたくて・・・。でも通じない。フランス人だったり、スペイン人だったり。あの頃、外人は皆英語を話すと思っていたかもしれん。

ちなみにオレは何かの時のために、(何を期待していたのか?)東京のいとこにもらった縦ストライプのカラフルベルボトムのスラックスを持っていったが、使う場がなかった。結局それをはいて、万博会場で買ったウエスタンハットをかぶって、宿での写真だけが残った・・・。誰もいい思い出がないじゃないか!!青春を返せーーー。

おしゃべりバカつよP!! 発言者:ダラケン 2002年03月01日(金) 22時29分
そんな事より語りたかった事があるんだよ! 折角、ただの進藤くんがネタを振ってくれて、着々と構想を練っていたのに、すっかり腰を折っちまった。でも語る。 
 修学旅行の思い出は、万博では「三菱未来館」。そのパフォーマンスは今やどうって事ないが、当時はほんとにビックリだった。 鴨川沿いの旅館では仲間数人とアベックをからかい、享四朗先生にビンタをくらった。しかし、なんといっても、忘れられない思い出は、京都での2晩、自由時間にU君と行った「ゴーゴー喫茶」(ディスコ)である。大人の仲間入りをしたいお年頃、U君とは前々から「絶対、行こうぜ!」と計画していた。当時のファッションはアイビー全盛で、特に、京都はその色合いが濃かった。ボタンダウンのチェックのシャツにツンツルテンのコッパン。靴はバックスキンのスリッポン(紐なし靴)かリーガル。 そんな中、我々の出で立ちがすごかった。裕次郎がディナーショーで着る様な襟のでかいカラーシャツにボンタン(黒のラッパズボン)、それに、黒の革靴である。一見して、「ボク達!今日、田舎から出てきたイカレポンチ二人組みでーす!」と顔に太ゴシックで書いてあるも同然だった。 ドキドキしながら、とある店に入ると、そこはまさに今まで体験した事のない世界。薄暗い店内に強烈なビート。ミラーボールの光りがタバコの煙を写す。むせ返る様な人いきれと香水の薫り。「きたーっ 大人の世界だ!」当時、流行のモンキーダンスを踊った。 要領を得た2日目には調子にのって、カウンターでタバコをふかしていた。すると、ふいに「今、何時や?」と若者から声をかけられ硬直してしまった。「えっと、8時半っす。」直立不動だった。「ありがと。ところで、君たち一体どこから来たん?」明らかにヘンな風体の我々を訝っての質問だった。動転している気配を悟られまいと、取り繕いながら、咄嗟にでた言葉が「……とちぎ。」「へえ〜、栃木。またえらい遠いとこから来はってんなあ。」「ええ、まあ…。」 不覚にも、「山形」とは言えなかった。パニクッた頭が「山形」と言ってしまうと、‘裏日本’‘雪’‘寒村’‘迫害’‘強制労働’‘餓死’という妄想を喚起していた。それにしても「栃木」である。今さらながら「やってくれるわ。」だった。事なきを得て、店を出ると、外の空気が新鮮に感じられ、何かすこし大人になった様な気がした。 「もうすぐ門限だから帰るか?」「うん。」「しっかし、宿へ帰れば“枕投げ”している様なガキ共と一緒かと思うと、うんざりだな?」「んだ。」とかなんとか言いながら宿へ向かった。

ダラケン入院? 発言者:つよP 2002年03月01日(金) 20時15分
ニュース速報!!
「TP通信」(つよP通信)によると、以前、酔っ払って転倒し骨折したダラケンが、固定していたボトル?もといボルトをはずすために来週、何日か入院するらしい。
ノートパソコンを持っていて、病院に持参するかは不明だが、皆でエールを送ろう。
返事は退院後か、毎日即答かは、明らかにしていない模様。
謙三、バラしてごめーん。

救急救命士・万博・三島・あかね空 発言者:ただの進藤 2002年03月01日(金) 20時01分
カミさんの甥が4月から東京消防署に勤務する。夢は救急救命士と言っていた。桜井先生のご指摘通り、働きやすい環境作りや法整備を急いで欲しいものだ。

さて「思い出したくもない大阪万博」という共通のフレーズがここで再確認してしまったね。私も「月の石を観ては他が観られなくなるから、他のパビリオンを観ようと思ったことは覚えているが、ではどこのパビリオンを観たかといえば、まったく覚えていない」といった調子。それにもうじきクラス編成を控えた2年生になる直前の春休みという、まったく中途半端な時期の修学旅行で、ほんとに間が抜けてたね。「私の北海道を返せ〜」という花京太さんの気持ちなるほど理解できる。

なんで高校時代に三島由紀夫に熱くなっていたのか、はっきり説明できないが、たぶん美しすぎる文体や、ボデイビルや剣道で鍛えた肉体をも含めた、彼の美学にただ憧れていただけかもしれない。
30年すぎた現在、本は好きでよく読む方だが、圧倒的に芥川賞ものより直木賞ものを読むことが多くなった。面白いことに、同世代の直木賞作家の作品を読むと、三島への憧憬をちらり感じることがある。例えば元自衛隊員の浅田次郎(51年生まれ)。エッセイ『勇気凛々ルリの色』には三島由起夫と出会った話が書いてある。彼は実際市ヶ谷駐屯地に赴任経験を持つので、まるで三島の亡霊に出会ったような趣がある。それと小池真理子(52年生まれ)の『欲望』。官能小説の中に三島文学を織り交ぜた不思議な世界。作者自身もきっと高校時代に三島美学に熱くなったことを匂わせるような小説だった。

私はもう三島文学を読み返すほどの健全な肉体?を失ってしまった。トホホ。・・いや、それより小説はエンターテーメントでなくっちゃ!
いま山本一力の『あかね空』を読んでいる。そうそう『オール読物』の「宮部みゆき・山本一力の対談」は面白かった。もちろん本屋で立ち読みです。

こう言うのもなんですが… 発言者:(^θ_θ^) 2002年03月01日(金) 19時18分
上田くんの顔と名前は、小学校の時から知っていましたが、クールな秀才というイメージを持っていたので、余計に笑っちゃいました。(スイマセン)
もっと出てきて欲しい人材かも。

数年に一度、万博の‘太陽の塔’の下を走る高速を通りますが、そのたびに何となくオマヌケな気分を味わいます。 これって、花京太の言うように、行きたくもないのに無理やり連れて行かれた後遺症なんだべか?

桜井せんせ、救急救命士の事、よく言ってくれました。 エライ!
ニュースステーションは見ていませんが、私もずーっと変だと思ってました。
家のすぐ近くに、救命士の研修施設があり、何ヶ月単位で研修だか訓練だか、受けているそうです。
医師の資格とは全く別個のものですが、全くの素人が処置をするわけでもなし、目の前の命を救えることなら、そっちが優先でしょう、と単純に考えます。
何時自分がお世話になるかも知れないし・・・そこんとこ、宜しくって感じです。

ゴメンね、上田君。 発言者:花京太 2002年03月01日(金) 19時01分
上田君、つら〜く、くら〜い過去を思い出させてごめんなさい。
二人で叫ぼう「万博なんて大嫌いだ!!!!」と。
青春は重く苦しい腹の内だったのね。

ところでつよPさん、私、救急車にお世話になったことがあります。それ以来救急隊員の皆様には畏敬の念を持っています。(追突事故でフロントガラスにヘッディングをして、粉々に割ってしまい、頭から血が・・・・・)動転している私に彼らは見事なまでにやさしく、そして適切に言葉を掛け続け励まし、処置をしてくれました。ほんと、惚れてしまいそうなくらい光り輝やいていました。連れて行かれた病院の先生がかなり頼りなく、救急隊員の方が帰ってしまう時は思わず、「行かないで、そばに居て〜」と叫んでしまいそうなくらい頼もしかった。
石頭か脳がマッスル化していたせいか傷は軽く今では笑い話ですんでいますが、あの時は、救急隊員の素晴らしい仕事ぶりにほんとうに感動しました。
1日も早く、日本の古い体制が変わる事、そして救命救急士の方々が何の憂いも無く働ける事、私も願っています。

花京太&ただの進藤さんへ 発言者:上田豊明 2002年02月28日(木) 23時33分
私も高校時代のことを振り返るとき、大阪万博のことは必ず頭をよぎる。そして、決していい思い出ではない。なぜなら、朝宿を出るときに(グループ行動であった)じゃんけんで負けて、同じ班の全員の荷物を持つ羽目になってしまったのである。それでも京都(前日の宿?)から万博会場の臨時駅までは、電車自体真新しくまだそんなに込んでいる時間帯でもなかったせいか「おうー、上田大丈夫だが。」などと言ってくれる奴がいた。「うーん。ありがど。まだ大丈夫だはげ会場さ着いだら頼む。」
私としてもすごく嬉しかった。たかがジャンケンだけども約束は約束。今日は1日荷物持ちでしょうがないかと覚悟を決めていたのだから。とろろがである。万博会場の臨時改札口を出てすぐのところに万博の入場口が見えたとき、誰が入場口目掛けて一目散に走っているのである。そう、ほとんどの人間である。今までの電車内の紳士善とした態度はなんだったのであろうか。私は「待でー。お前がだー。」と叫びたかったが自分の出立ちを思ったら恥ずかしくて何の言葉も出なかった。ガクランの上に黒のスプりングコートを着込み、学生帽をかぶったまるでおのぼりさんそのまんまである。更にリュックサックなるものを五つも背負い、胸には、バカチョンのカメラをぶら下げているのである。クソー。書いているうちに段々腹立たしくなってきて、文章までダラダラなってきた。
 結局、私はどのパビリオンも見学できなかったのだ。朝宿を出るときの約束では「たぶん、会場内は混雑してはぐれる場合があると思うので、12時には場所を決めて昼飯を一緒に食べよう」という班長のさすがとも思わせる言葉であった。しかし、私は入場してから12時の待ち合わせ場所で、ズーーーーット待っていたのであるが、午後1時になっても誰1人来ない。口惜しさで一杯になりながら、朝宿からもらってきた昼用の幕の内弁当を意地でも5人分全部食べてしまおうかと思った。しかし結局3人分しか食べることができず、後の2人分はあふれる涙をこらえながらゴミ箱に捨ててしまった。

 お待たせ、ただの進藤さん。
私たち高校3年間の主な出来事が記されていましたが、私も三島由紀夫の市谷駐屯地事件にショックを受けました。60年安保の時は、まだこどもで訳が分からなかったし、70年安保では自分なりに多少考えることもできたのですが、ある週間雑誌を読んで、革命と言う名の下に幹部の男どもが思想・理念に賛同して入ってきた女性同志に、洗礼と称して輪姦したという記事に吐き気を催した。(私は、まだ純粋なのであった)以来、学生運動というまやかしには踊らされまいと思った。
 だからと言って極端な、右系統でもない。
彼の事件前で読んだものと言えば「潮騒」と「金閣寺」だけである。
その後、「豊饒の海」4部作を知り一気に買い込んで、これまた一気に読みきった思い出がある。特に第2部の「奔馬」の主人公に対しては、三島由紀夫そのものを髣髴とさせるものであった。

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